「開心、改心、そして回心」

 

「日々を過ごす 日々を過つ 二つは一つのことか 生きることはそのまま過ちであるかもしれない日々 “いかがお過ごしですか”と、はがきの初めに書いて 落ち着かない気分になる “あなたはどんな過ちをしていますか”と 問い合わせでもするようで・・・」

 

詩人・吉野弘の「過」と題された詩です。

 

毎日を生きながら自分の過ちに気づかされ、後悔しない日はありません。「後悔、先に立たず」とはよく言ったものです。その都度反省したり、後悔したり、改心はするのですが、「日々を過ごす」と「日々を過つ」のいずれもに「過」の字が使われているように、「過ちの人生」はもう宿命としか言いようがないほどです。

 

ところで、悔い改めを「改心」と呼んできた教会はいまは「回心」と呼んでいます。悔い改めるとは単に反省したり後悔したりすることではなく、自分の生き方そのものを変えるという意味に理解するからです。

 

あのパウロのようにクリスチャンを迫害していたのが、その迫害の相手であるイエスを信じる者になるという180度の転回をしたのです。それが回心です。

 

とは分かりながら、後悔・反省を繰り返しながら生きている日々、「後悔、先に立たず」どころか、「後悔、後を絶たず」の日々はやはり哀しい。

 

大都会の小さな教会

 目白通りを一本入った閑静な住宅地に、芝生の生い茂った暖かい教会があります。

 信仰に導かれて長い間この教会を支えて来られた年配の方々、またその方たちを心のよりどころとする若い仲間たち。ここには明るい笑顔に包まれた「神の家族」があります。

「家庭的なぬくもりを感じますね」と、新しく来られた方々からよく言われます。

 これからもこの地域に根ざした、愛と希望に満ちた教会形成に励んで参ります。

 

「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」<マタイ18:20>

 

どうぞどなたでもご自由に教会をお訪ねください。