「疑う」
「しかし、疑う者もいた」(マタイ28:17)
復活のキリストに会うために山に登った11人の弟子たちの中に、なお疑う者がいたとマタイは書いています。この「疑う」という言葉は、「数字の2」の文字を動詞形にしたもので、もともとは二つの間を行ったり来たり迷うという意味です。
信仰というのは「迷わないで信じ切る」のが理想かもしれませんが、実際にはそうではありません。迷いつつ信じる、信じつつ迷うというのが正直な姿でしょう。イエスご自身もゲッセマネの祈りにおいて、「主よ、み心のままにしてください」と、祈られました。これは信頼しつつ、同時に迷いつつの叫びだったといえるでしょう。
聖公会やカトリックの教会堂の中には必ず洗礼盤が置かれています。礼拝堂の入り口のすぐわきに置かれている教会もありました。「なぜ入り口近くに洗礼盤がおかれているのか?」と聞いたところ、礼拝に来るたびに「私は洗礼を受けた」ことを確認するためだと、いう答えでした。最近、プロテスタントの教会でも礼拝堂の中に、聖餐台とならべて洗礼盤を設置しているところも出てきました。洗礼と聖餐という二大礼典への意味付けを現わそうとしているのでしょう。
一週間の生活の中で、信仰と疑いとの間をさ迷いながら主の日に神の前に出る時、私たちを支えてくれるものは、キリスト名によって洗礼を受けた事実と主の聖餐に与る恵みなのです。
疑い迷うことが罪なのではありません。神の恵みに頼らないで生きることが罪なのです。