「引き渡す」
「裏切り」ほど卑劣で、陰湿な行為はありません。イエスを裏切ったイスカリオテのユダは「裏切者」として歴史に汚名を残し続けています。なぜ、ユダはイエスを裏切ったのか?いろいろな解釈や理由付けがされてきました。イエスに絶望したとか、お金のためであったとか、弟子たちのグループの会計係であったのにお金をごまかしていたとか、サタンのせいだとか、聖書自体も何とか理由付けをしようとしていますが、結局は謎としか言いようがありません。
ユダがイエスを裏切った ことは事実です。しかし、聖書の「裏切り」と訳されている言葉は、むしろ「引き渡す」という意味です。受難物語を読んでみると、ユダはイエスを祭司長たちに引き渡し、祭司長はイエスをピラトの引き渡し、ピラトはイエスを十字架につけるために引き渡したのです。裏切りという言葉は、聖書では「引き渡す」ことを意味しているのです。
この引き渡しは、すでにイエス自身が「人の子は人々の手に引き渡され、十字架につけられる」と預言されたことでした。ユダはその引き渡しの最初の役割を果たしたに過ぎないといえるのです。
ユダから始まる引き渡しは「み心がなされますように」と、ゲッセマネの園で祈られたその祈りが実現されたということです。「時が近づいた。人の子は罪びとたちの手に引き渡される。立て、行こう」 神のみ心はそこにあったのです。ユダはそのことをもちろん知りません。弟子たちもそうです。それは神のみ心を私たちは知ることができないからです。私たちの思いをはるかに超えているからです。
ユダの裏切りはやはり謎です。それは人間の側の謎ではなく、神の側にある謎だからです。