55.「怒る」
イエスはエルサレムの神殿に入り、庭で商売をしている人を追い出し、両替人の台やハトを売る者の腰掛をひっくり返しました。まるで、暴力団員(?)のように。「私の家は祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」(21:13)
「ローマ人は世界の強盗で、飽くことを知らず土地をむさぼる。盗みと殺人と強盗を『統治』と呼び、住民を絶やしてそれを『平和』と呼ぶ」 古代ローマの歴史家タキトゥスの言葉です。イエスが神殿で見たものは、神殿がいまやローマ帝国のような強盗の巣になっている姿だったのです。
イエスの乱暴行為は祈りの家であるべき神殿を支配し、貧しいユダヤ人や異邦人からも金銭を収奪している祭司やそれと共謀している支配者層への怒りだったと言えましょう。愛の人であるイエスがなぜこのように激しく怒りを表したのか。
大阪の釜ヶ崎で働く本田哲郎神父は、怒りには二種類あると言います。「自分のわがままから出る威圧的な怒りと、痛みの共感・共有からわき上がる解放を求める怒りです」神殿でのイエスの怒りは、明らかに後者でしょう。神殿はすべての人の祈り家であるべきなのに、ローマ帝国と同じ支配と権力の巣となってしまっていたからです。怒りと共感は表裏一体なのです。いや、イエスの場合、怒りと祈りとは表裏一体だった、といってもいいのではないでしょうか。