「後悔する」
「日々を過ごす 日々を過つ 二つは一つのことか 生きるとは そのまま過ちであるかもしれない日々 『いかがお過ごしですか』と はがきの初めに書いて 落ちつかない気分になる 『あなたはどんな過ちをしていますか』と問い合わせでもするようで」 詩人・吉野弘の『過』と題する詩です。
過ぎ去った過去を顧みれば、その多くが過ちの日々であり、「後悔、先に立たず」と悔やまれることの多いのが人生です。後悔は人間であるがゆえの宿命、業(ごう)とも言えるでしょうか。
ところで、実は神様も「後悔された」のです。創世記のノアの洪水の物語には神様が「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(6:6)とあります。それも2度も続けて後悔されているのです。
神様は絶対かつ万能で、間違えることなど決してなく、従って後悔されることなど決してないと私たちは信じているのですが、なんと神様は人間を造ったことを後悔されたのです。とすれば、被造物である私たち人間が「後悔する」のも当然のことだといえましょう。
しかし「神さまが後悔し、心を痛められた」ことによりノアの洪水の物語の最後に「もはや肉なるものをすべて滅ぼすことはない」との神と人間との間の永遠の契約につながっていくのです。
「後悔、先に立たず」どころか、「後悔、後を絶たず」の後悔の日々を過ごしているとしても、それもまた「神の後悔」によって生かされている日々であるのです。