「赦す」
かつて旧ユーゴスラビアで内戦が続いていた時期、ある女子修道院がセルビアの民兵によって襲撃され、シスターたちは暴力や暴行を受け、一人の見習いシスターが妊娠しました。しばらくして彼女は一通の手紙を残して修道院を去って行きました(犬養道子著『一億の地雷、ひとりの私』)
「院長様、わたしはこのままで去ります。お腹の子どもと一緒に。貧困が私たちを待っていますが、故郷の森に帰り生計を立てることになるでしょう。わたしは我が国をズタズタにした人々に対する憎しみと呪いを断ち切るという人間にとって不可能に近いことを今後一生の仕事にしましょう。生まれてくる子どもに私は人を、すべての人を愛すること、暴力と憎悪によって生を受けたその子が、人間にとって唯一の名誉、つまり愛と赦しの生きた証人となるように、愛と赦しによる平和の建設者と、その子がなるように」
ペトロは「何回赦すべきでしょうか。7回までですか」と尋ねます。7は完全数を意味します。7回の赦しなど私たちにはとても不可能です。しかしイエスは「7を70倍までも赦しなさい」と言われます。490回、気の遠くなるような回数です。しかし、赦しとは回数の多さのことではなく、赦しを「一生の仕事」とすることです。
「自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい。復讐は私のすること、わたしが復讐する。あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」(ローマの信徒への手紙12:19,20)
赦すとは、赦すことのできない自分の弱さを背負いつつ、なお愛に生きて行こうとすることです。