45..証言する
先日来、東京都議会や国会で証人喚問がおこなわれました。「虚偽は述べない」と宣誓しながらも、なにが真実で、なにが事実なのか、明らかにならないまま終わったようです。「有や無や」というのは日本的な解決法と言えますが、証人たちの言葉への誠実さを見ることはできませんでした。
聖書での「証言」という言葉は後に「殉教」を意味する言葉となりました。キリストの証人となることは、自分の命をかけることだったのです。信仰者にとってローマの法廷での証言はそれほど重いことでした。
今評判になっている映画「サイレント」の原作である遠藤周作の小説『沈黙』では「踏み絵」を踏むことで信仰の「有無」が問われます。多くのクリスチャンたちは踏み絵を踏むことを拒否し、殉教します。この信仰者たちの流したおびただしい血は信仰の証しとなって、かえって多くの人を信仰へと導いたのです。
「あなたはペトロ、私はこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16:18)「この岩」とは何のことか、カトリック教会は初代教皇とされるペトロの使徒職を指すとし、プロテスタントはペトロの「あなたはキリストです」との信仰告白だと理解します。
信仰はいつも確かなものとはいえません。しかし、その不確かさの信仰のためにイエスは、「私はあなたの信仰がなくならないように祈って」(ルカ22;32)くださったのです。このイエスの祈りこそが、私たちの信仰の確かさであり、教会の岩(ペトロ)となるのです。