44「超える」

境界線とは自由に超えることが出来ないものです。たとえば国境です。国境線は目に見えませんが、厳然として存在しています。国境を超えると不法な侵入者として逮捕されますし、軍隊が他国の国境線を一歩でも越えれば戦争になりかねません。

国籍や民族という境界線もあります。国籍や民族が違うと宗教や文化も違い、それが境界線となって対立や差別を作り出すこともしばしばあります。イスラム教徒は入国させないと、主張する大統領も現にいます。

性による境界もあります。性別の違いで差別や格差が行われることもしばしばです。そして、あまり問題になりませんが、人間と動物との間にも境界があります。人間は被造物の最高位にあり、動物たちは下位の存在として人間の自由に支配されてきました。人間と動物との間にある「境界」は他よりはるかに高く厚い壁と言えましょう。

イエスがカナンの女に「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と、言われた時、「小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と彼女は答えます。子どもたち(ユダヤ人)と小犬(異邦人)との間にある境界線を彼女は見事に超えているのです。イエスが主人である神の家には人間と小犬(動物)との境界がすでに超えられていることを彼女は信じたのです。

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」 イエスが感心するほど軽々と境界を超えた信仰がここにあります。教会は境界を超えるのです。

 

 

大都会の小さな教会

 目白通りを一本入った閑静な住宅地に、芝生の生い茂った暖かい教会があります。

 信仰に導かれて長い間この教会を支えて来られた年配の方々、またその方たちを心のよりどころとする若い仲間たち。ここには明るい笑顔に包まれた「神の家族」があります。

「家庭的なぬくもりを感じますね」と、新しく来られた方々からよく言われます。

 これからもこの地域に根ざした、愛と希望に満ちた教会形成に励んで参ります。

 

「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」<マタイ18:20>

 

どうぞどなたでもご自由に教会をお訪ねください。