40.「外に立つ」
「イエスが群衆に話しておられる時、その母と兄弟たちが、話したいことがあって『外に立って』いた」(12:46) この「外に立つ」という言葉はエクスタシーの語源で、もともとは「外にある」とか、「外に出る」という意味です。
マルコ福音書では母や兄弟たちが、イエスが「気が変になった(エクスタシー)」として取り押さえるためにやってきた、と書かれています。イエスの母や兄弟たちにとってイエスは「外に出て行ってしまった(気が変になった)」人だと見做していたのです。そのイエスを彼らは「わたしの息子、わたしの兄弟」という肉親関係に引き戻そうとしたのです。それが本来の正常な人間関係であり、社会の姿であると。
このように人間の関係は常に「わたし」を中心に作られます。「わたしの親、わたしの兄弟、わたしの友人、わたしの同胞」、そうでない人は「わたしの外にいる人」であり、「気が変になった人」と見られるのです。
しかし、イエスは「だれでも、私の天の父のみ心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と、この「わたし中心」を打ち破ります。そして「わたし」ではなく、「天の父のみ心」が中心となり、天の父のみ心に従うものは、だれでも兄弟、姉妹、そして母となるのです。
最近、アメリカファーストを主張し、イスラムの人々を排除するトランプ大統領は「わたしの意志」はファーストでしょうが、「天の父のみ心」の外に立とうとしているのでしょう。