22, 余滴 「求めよ、さらば」

 

 「機械仕掛けの神」という言葉があります。もともとは古代ギリシャの演劇で使われていた用語で、絶体絶命の状況に陥った時に、機械仕掛けの神(全能の神)が登場して、たちまち解決してくれる神のことです。今日風に言いかえると「自動販売機の神」となるでしょうか。コインを入れさえすれば、すぐに求めるものを出してくれるような「便利な神」のことです。

「求めよ、さらば与えられる」 求めれば、すぐに与えてくださる自動販売機のような神を信じようとしてはいないでしょうか。そして、求めるものが与えられれば感謝はしても、求めても与えられない場合は、文句を言ったり、失望したり、神を自分の思い通りになる奴隷のようにしてしまってはいないでしょうか。

「求めよ、されど与えられん」 神はご自分の都合(み旨)に従い、都合のよい時(摂理)に応えられるのです。私たちはこの「されど」に向かいあいつつ、「求め続け、探し続け、たたき続け」るのです。

コインを入れても出てこない時、自動販売機をたたき続けていると、案外ガシャント出てくることもあるのです。「たたけよ、さらば開かれる」ということでしょうか。

しかし信仰とは、「万事を益とされる」神に信頼しつつ、「さらば」と「されど」との間で生きることなのです。

 マタイによる福音書77

 

大都会の小さな教会

 目白通りを一本入った閑静な住宅地に、芝生の生い茂った暖かい教会があります。

 信仰に導かれて長い間この教会を支えて来られた年配の方々、またその方たちを心のよりどころとする若い仲間たち。ここには明るい笑顔に包まれた「神の家族」があります。

「家庭的なぬくもりを感じますね」と、新しく来られた方々からよく言われます。

 これからもこの地域に根ざした、愛と希望に満ちた教会形成に励んで参ります。

 

「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」<マタイ18:20>

 

どうぞどなたでもご自由に教会をお訪ねください。