10. 余滴 『逆説』
荒れ野の悪魔による三度の誘惑は、すべて「もし・・・なら」という言葉で始まっています。このような仮定の表現は、その裏側に不信と懐疑を隠しつつ、実態と行動を示すことを求めてきます。「もし、ほんとうに神の子ならできるであろう」 こうした「もし・・・」は、しばしば正当性と説得力をもって迫ってくるのです。「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神の子だと言っていたのだから」 最後の、そして決定的な誘惑がここで起こっています。しかし、イエスは十字架から降りて「神の子」の権威と奇跡を示されることはありませんでした。十字架につけられたままの神の子、この逆説こそが救いの出来事だったのです。「本当にこの人は神の子だった」(マタイ27:54)。人生に誘惑は付きものです、信仰生活においても誘惑は絶えません。「もし、信仰者なら・・・」と、いつも厳しく問いかけてくるのです。それも悪魔によってではなく、家族から、友人から、時には教会の仲間からも。もし、それに打ち勝つことができるとすれば、「人の声」ではなく、「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」ことによるしかないのです。
( マタイによる福音書4章1~11)