「七つのわざわい、八つのさいわい」
「七転び、ハ起き」という言葉があります。七回転んでも八回起き上がればよいという励ましの言葉です。七回転べば、七回起きればよいと思うのですが、なぜか八回起きるのですね。「人生は一度きり、だから転んでも立ち上がり、前向きに生きていくのだ」(坂村真民 ) 要は、何回転んでもそのたびに起き上がればよいということなのでしょう。
「律法学者とファリサイ派の人々は不幸(わざわい)である」、と、マタイ福音書23章13~36節の間でイエスは7回も「わざわいである」と繰り返しています。しかし、このわざわいの言葉は実は律法学者やファリサイ派の人々に向かってではなく、イエスの周りにいた群衆や弟子たちに対して語られているのです。
イエスから「七つのわざわい(呪い)」の言葉を投げつけられているのは弟子たちであり、イエスの周りに集まっている群衆(シンパ)であったのです。「ファリサイ派の人々が言うことは守りなさい。しかし、彼らの行いは見倣ってはならない」
マタイの教会にイエスの福音から離れて再び律法に逆戻ろうとする動きが起こっていたのです。福音だけでは不十分で、ファリサイ派の人々を見習って律法の行いも守らなければならないと主張する人々が現れてきたのです。
しかし「律法の実行に頼るものはだれでも呪われています。正しいものは信仰によって生きるからです」(ガラテヤ3:10)とパウロは言います。律法は呪いと災いをもたらすだけなのです。
イエスは山上の教えで、「八つの幸い」を語りました。イエスの教えは七つのわざわいよりさいわいの方が一つ多いのです。福音の恵みは律法の呪いを超えるのです。
「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなることか、主の御もとに身を寄せる者は」(詩編34:9) いま省みれば、わざわいや呪もありましたが、それにも増して祝福と恵みの方が多かったと思うのです。