「払う」

以前、イスラエルを旅行した時、ガリラヤ湖の湖畔のあるレストランで昼食をとりました。そこの名物は「ペトロのサカナ」だと言うので注文しましたが、鯉かサバのから揚げに似たもので、「名物にうまいものなし」の言葉通りのものでした。

この「ペトロのサカナ」の名前はイエスが神殿税を払うかどうかを問われた時、ペトロに湖に行って最初に釣れたサカナの口の中に銀貨が一枚あるので、それで納めなさいという話に由来しているようです。

もっとも聖書ではペトロがガリラヤ湖に釣りに行ったとも、釣ったサカナの口の中に銀貨があったとも、それで神殿税を払ったとも書いてはありませんので、事実かどうか分かりませんが、この背景にはユダヤ人クリスチャンが直面していた「神殿税」を払うべきかどうかという悩ましい問題があったようです。

「神殿税」を払うとユダヤ教と神殿の決まりに従属することになり、払う必要はないとすると、ユダヤ教に反し、神殿と対立することになり、どちらを選んでもユダヤ人社会の中でクリスチャンは騒動を引き起こすことになるのです。

町内会の役員さんが町の神社のための寄付を集めに来られ、「ここは教会ですから」と言うと、「教会さんも氏子ですから」と言われて困惑したことがありました。地方ではよくある話です。

イエスは答えます「王の子どもたちは納めなくてもよい(原意では「自由だ!」)と明確です。そう、自由なのです。主体はこちらにあるのです。しかしその自由は人々を「つまずかせないように」との配慮が求められるのです。

 

結局、「まあ、会費として」と払いましたが、自由を貫くのは結構大変です。

大都会の小さな教会

 目白通りを一本入った閑静な住宅地に、芝生の生い茂った暖かい教会があります。

 信仰に導かれて長い間この教会を支えて来られた年配の方々、またその方たちを心のよりどころとする若い仲間たち。ここには明るい笑顔に包まれた「神の家族」があります。

「家庭的なぬくもりを感じますね」と、新しく来られた方々からよく言われます。

 これからもこの地域に根ざした、愛と希望に満ちた教会形成に励んで参ります。

 

「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」<マタイ18:20>

 

どうぞどなたでもご自由に教会をお訪ねください。