余滴37.「アップ」
教会のホームページに礼拝説教をアップしました。だれでも聴くことができるのが利点ですが、だれが聞いているか分からないのが不安でもあります。
早速、ホームページで自身の説教を聞いてみました。率直なところ「老化と劣化」が進んでいる、と痛感しました。言葉にキレがない、転開にシャープさがない、テーマに焦点がない、だから結論がしまらない、「ナイナイづくし」というのが感想です。
親しい友人が私の説教を「胸元に鋭く食い込んでくるシュートのようだ」と評したことがありましたが、いまは「打者の手前で外にはずれ、ボールになっていく緩いカーブ」という感じです。アップしたことを後悔したのですが、でもひとりでも聞いてくれる人があるなら、と気を取り直しました。
「他人の噺を聞いて、これはヘタだと思ったら、自分と同程度だと思え。自分と同じぐらいだと感じたら、相手の方がずっとうまく、こいつはウマイと思った時は、足元にも及ばない」 円生だか、志ん生だか忘れましたが、時々思い出します。
説教に「ウマイ,ヘタ」の基準はないとしても、聴く人の胸に迫るような説教を、と願っています。とはいえ、いまさら力んでみてもデッドボール(死球)になるのが落ちでしょう。
「自然体、自然体」、結局そこに落ち着きました。
マタイによる福音書12章1~8