27. 余滴  「思い起こす」

 

先週116日は「召天者記念礼拝」でした。キリスト教では111日を「諸聖徒の日」として召天者を覚えて礼拝を守ってきた歴史がありますが、日本では11月の第一日曜日に行う教会が多いようです。

もっとも、地方の教会では8月のお盆の時期に行う教会もあるようですが、帰省する人たちの都合に合わせてのことだと聞きました。ご都合主義とも言えそうですが、キリスト教は先祖を大切にしない、との批判に対する対応と言えるかもしれません。それはそれでよいとは思いますが。

それはともかく、キリスト教の信仰は歴史の中に働く神の恵みの業を見るものですから、その人の信仰の歩みを思い起こし、そこに神の恵みの業を見出すことが信仰にとってとても大切なことといえます。

先日、教会の墓地で墓前礼拝をおこないましたが、納骨されているお一人ひとりの信仰の生涯を思い起こす時であり、また場所であることを改めて味わいました。

個人的な趣味ですが、墓地の墓標に刻まれた言葉を見るのが好きです。いろいろな言葉が刻まれていますが、「和」とか「憩い」とかの言葉が多い中で、「想起」という言葉が刻まれていたのがとても印象的でした。

「わたしはいにしえの日々を思い起こし、御手の業を思いめぐらします」(詩編1435)の聖句を思い起こしました。信仰とは「思い起こすこと」でもあります。

教会の歴史は「想起」そのものと言えましょう。

                            (マタイによる福音書8章17節)

 

 

大都会の小さな教会

 目白通りを一本入った閑静な住宅地に、芝生の生い茂った暖かい教会があります。

 信仰に導かれて長い間この教会を支えて来られた年配の方々、またその方たちを心のよりどころとする若い仲間たち。ここには明るい笑顔に包まれた「神の家族」があります。

「家庭的なぬくもりを感じますね」と、新しく来られた方々からよく言われます。

 これからもこの地域に根ざした、愛と希望に満ちた教会形成に励んで参ります。

 

「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」<マタイ18:20>

 

どうぞどなたでもご自由に教会をお訪ねください。