24.余滴 「権威」
権威とは「ずば抜けた実力の累積によって支えられた、他を威圧し、追随せしめる人が漂わせる雰囲気」と「新明解国語辞典」にはあります。
イエスの「山上の説教」を聞いた人々は「その教えに非常に驚いた。権威ある者として教えになったからである」(7:29)
当時、「権威ある者」と呼ばれたのは律法学者たちでした。律法に精通し、人々を威圧し、その教えに追随せしめる権限を持った人々であり、律法の権威を笠に着た「権威主義者」たちのことだったのです。
しかしイエスの教えは、律法という権威を盾にしたものではありませんでした。「権威」という言葉は、もともと「本質から出る」という意味です。イエスの言葉は彼自身の本質から発せられたものだったのです。イエスご自身の生き方が言葉となったのです。だからその教えは聞く者を揺り動かし、変えていく力となったのです。権威ある者とはそのような人のことです。
「言葉は出来事となる」 これが聖書の理解です。神の言葉を語る説教者は、この問いに恐れおののきます。聖書の言葉をただ振りかざしているだけではないのか、語っている説教が人々の心を揺り動かし、生き方を変えていく力を伴なっているのか。いや、語る言葉を自分自身が行っているのか、牧師の生き方が問われているのです。でも、それができないのが現実です。
せめて「権威を漂わせる雰囲気」ぐらいは、と思ったりもするのですが。
(マタイによる福音書7章26節)