⑦ 余滴 『沈める』

 

バプテスマのヨハネは罪の悔い改めの洗礼を授けていました。その洗礼をイエスがお受けになったのです。イエスもまた罪人のひとりで、悔い改めが必要だったということでしょうか?★洗礼(バプテスマ)という言葉は、もともとは沈めるという意味で、水中に全身を沈めることによって罪人として死に、水の中から起き上がることによって新しい人間に生まれ変わることです。では、イエスはなぜこの「罪の悔い改めの洗礼」を受けられたのでしょうか。それは彼が悔い改めを必要とする私たち罪人と同じ所に立ち、罪人のひとりとなられたことなのです。イザヤ書の「彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられた」との預言がここで成就したということです★イエスはヨハネの洗礼を受けることによって罪人のひとりとなり、十字架の上で罪人の仲間としてとして死なれました。最初の洗礼の時から最後の十字架までご自身も「罪人」として生きられたのです。洗礼直後の「あなたは私の愛する子、私の心にかなうものである」との天からの声は、ヨハネの洗礼において罪人のひとりとなったイエスこそ「神にかなうもの~メシア」であることを示しているのです。

 

(マタイによる福音書31317)

大都会の小さな教会

 目白通りを一本入った閑静な住宅地に、芝生の生い茂った暖かい教会があります。

 信仰に導かれて長い間この教会を支えて来られた年配の方々、またその方たちを心のよりどころとする若い仲間たち。ここには明るい笑顔に包まれた「神の家族」があります。

「家庭的なぬくもりを感じますね」と、新しく来られた方々からよく言われます。

 これからもこの地域に根ざした、愛と希望に満ちた教会形成に励んで参ります。

 

「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」<マタイ18:20>

 

どうぞどなたでもご自由に教会をお訪ねください。