③ 余滴 『受け入れる』
イエス・キリストの系図の最後は「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」となっています。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」というなら、アブラハム、ダビデの血筋を引く「ヤコブはヨセフを、そしてヨセフはイエスをもうけた」とならなければならないのですが、「マリアからイエスがお生まれになった」と、ヨセフは「マリアの夫」としてしか登場しません。系図上はイエスの父と見做されながら、実際は形式上の父でしかないのです。ヨセフはいわば「借り物」としてしか登場しないのです。
そのせいか、ヨセフはマタイ福音書では誕生物語にしか登場せず、間もなくその姿は聖書から消えてします。若くして死んだとの推測もありますが、マリアに比べれば重要な役割は与えられていないのは事実です。その後の教会の歴史の中でもヨセフはいつも端役でしかなく、聖画でも影の薄い貧素な姿で書かれることが多いようです。
でもこのヨセフが未婚の母であるマリアを受け入れ、そしてその子イエスを受け入れることがなければ、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリスト」は存在しなかったということになります。しかし、ヨセフは主の天使が「恐れず妻マリアを受け入れなさい」との言葉に従い、「マリアを受け入れます」 この「受け入れる」という言葉は、そのままに受け入れる、ありのままに受け入れる、という意味もあります。受け入れることができない現実、受け入れることができない人をそのままで「受け入れた」のがヨセフであったのです。
ヨセフは聖書ではほとんど顧みられない人ですが、しかし彼のこの「受け入れ」によって、神が一人子イエスを通して私たちを「そのままで受け入れてくださった」救いの出来事を実現化する者となったのです。ヨセフがいなければキリスト教はなかったということになります。
(マタイによる福音書1:18~24)